家族全員の支えで「一人じゃない」と思えた サヤ
家族全員が私のサポーターとして治療も心も支えてくれました。
自然なウィッグ・エクステ通販のリネアストリア
両親の介護のため30年ぶりに故郷の北海道木古内へ戻るも、自身の乳がんが発覚。
介護と闘病を経て「ひとりで抱え込まない」ということの大切さを経験し、現在は千葉で家族とともに穏やかな日々を過ごしている。
私の故郷、北海道木古内(きこない)町の病院からの電話が、その始まりでした。「お母さんは函館の専門病院への通院が必要。その介護をしてきたお父さんももう限界だ。とにかく一度戻って欲しい」と。
ここ数年、ずっと体調が優れなかった母と、もう80歳を超えた父の二人暮らし。私も地元の高専を卒業してからは、就職・結婚・子育てとずっと関東でした。とりあえず2、3日分の着替えだけを詰めて、故郷に戻ることになりました。この時は、すぐに戻ってこられると思っていたのです。
北海道木古内町。函館のすぐ近くにあり、2016年に開通した北海道新幹線で本州から北海道に入って最初の駅がある町です。海も山もすぐ近く、私は自然の中でのびのびと育ちました。砂浜で綺麗な石を集めたり、テトラポットをジャングルジムのように駆け上ったり。内装業を営む父と、裁縫が得意でミシンで何でも作ってくれる母。漁師だった祖父が漁帰りに仲間を連れて帰ってきてお酒を飲んでいたりと、いつも賑やかな家庭でした。
久しぶりの帰省でしたが、そこはもう「自分の居場所」ではありませんでした。友達も近くにはいないし、私の部屋はもちろんもうない。私物もない。お気に入りの本屋も喫茶店ももう取り壊されていました。父と母が寝静まった深夜、私だけはぐれて取り残されたような寂しさを感じました。
母の愛用のミシンに触れてみたけど、それはもう動きませんでした。
「ああ、早く千葉のお家に帰りたい」と思いながら、好きなクイズ・謎解きのYoutubeを見ることが、私の心の癒しでした。
最初は短い滞在のつもりでした。しかし父の病気が次々に見つかり、状況は一変します。最初は頭のふらつきから始まり、検査の結果、慢性硬膜下血腫だとわかりました。頭部を開けて血を抜く手術。退院して少し落ち着いたかと思えば、すぐに再発。三度目は突然言葉が出なくなり、ドクターヘリで函館の救急病院に搬送されました。
病室で見た父は、目は開いているのにうまく言葉が出ず、こちらを見ても視線が合わない。ほかの病気も重なり、みるみるうちに体力が落ちていきました。母は体調を崩し、妹は遠く関西にいて動けない。私しかいない。
スマホの通話履歴にはあちこちの病院、役所、介護業者、ケアマネジャーの番号が並ぶようになりました。毎日のように今後の事を話し合い、そのたびに「決定」をしなければなりませんでした。
自分の事ならパッと決められても、父だったら母だったらどうしたいのか、何がベストなのか、何が正しいのか、正解がわからない。それでも「回答」を求め続けられる。クイズなら答えた瞬間に明快なアンサーがある。
けれどここでは、答えてもそれが正解だったのか不正解だったのかわからないまま、すぐに次の問題が出てくる。
しかもそれがずっと続いていく、そんな状況がとても苦しかったです。
そんな最中、自分の胸にしこりを見つけました。函館の乳腺外科を受診すると細胞診の結果は悪性。父母の介護に追われる中、自分まで乳がんになったのです。自分のがん、父の病院、母の介護。周囲の人が「無理しないでね」と親切に声をかけてくれました。笑顔を返すものの「私が無理しなきゃ何ひとつ成り立たない、誰かが代わりになってくれるわけじゃない」と、心の中では思っていました。
このまま函館で自分の治療を受けるか、それとも千葉の家に戻って治療をするのか。私に出された二択の問題でした。父の事、母の事、自分の事。何がベストなのか、何が後悔しない選択なのか。誰も正解を教えてくれない問題に悩みに悩んで……私は千葉に戻って治療をする決心をしました。
父に、そして母にどう伝えようか。特に母にはショックを与えたくなかったので慎重に言葉を選びながら「私、乳がんになっちゃったから、千葉に戻るね」と伝えました。そして、そこからは、とにかく私なしで父と母が暮らしていける体制を整える事だけに集中しました。
この「戻る」という私の選択はひとつの大きな転機でした。北海道では常に「自分が決める側」で押しつぶされそうになっていたけれど、千葉に戻ると、そこには信頼できる医師と看護師がいて、治療の方針を丁寧に説明してくれました。
抗がん剤が始まると、つらい日には子ども達が家事を代わってくれました。自分の体のことなのに、すべてを任せられる安心感がありました。まるでエレベーターに乗っているような感覚で、ボタンを押せばちゃんと次のフロアに辿り着き、自動で扉が開いていく。
私は昔から何でも調べるのが好きで、気になることは納得するまで調べてしまう性格です。
乳がんの治療でも、薬の種類や副作用、標準治療の根拠まで自分で調べてできるだけ理解しました。
けれど同時に「任せる」ということの大切さも感じていました。自分だけで抱え込まず、人を信じることで気持ちが軽くなる。介護のときにはなかった感覚でした。
もう一つ、私を支えてくれたのはSNSの存在です。診断を受けたその日にアカウントを作り、同じように治療をしている人たちとつながりました。
ウィッグのこともネットの口コミなどを調査して、リネアストリアを知りました。娘が「おしゃれで有名なブランドだよ」とリネアを知っていたことでより安心して、千葉のサロンを予約しました。
購入したものの、どうやってウィッグデビューしようかと迷っていた私の背中をおしてくれたのも、ネットでした。突然のガス点検の立ち会いに「髪をどうしたらいいだろう」とXに投稿したら、「大丈夫!ウィッグかぶっちゃえ!」と即レスしてくれた人がいて、私のウィッグデビューにつながりました。
孤独な日々の中での見えないつながり。それが自分の支えになりました。もちろん、情報は取捨選択して、最終的には主治医の判断を信じました。
それでも「同じ経験をした誰かがいる」という事実が、どれほど心強かったか。
介護では孤独に「決定」し続けるしかなかったけれど、自分の治療では人に委ねること、気持ちを共有することができました。
今は治療が一段落し、少しずつ日常を取り戻しています。夫の長かった海外赴任も終わり、再び一緒に暮らせるようになりました。最近では二人で出かけることも増え、関西万博に行ったり、久しぶりに笑い合える時間を過ごしています。
あの故郷での5か月間は、人生で最も過酷な時間でした。今でも自分の回答が正解だったのかはわかりません。その後亡くなった父に、そして母に、もっと何かできたのではないか、と思うこともあります。
でも、そこで学んだのは、人はひとりで決定し続けるには限界があるということです。そして、誰かに任せること、気持ちを共有できることが、どれほど大きな支えになるかということです。今は「ひとりで抱え込まない」という選択を意識しながら、穏やかな日々を大切に生きていこうと思っています。
writer:Junpei Murase