私の挑戦は始まったばかり コミュニティナースたま 松本恭子
つながりに感謝しながら、手を取り合い支えあえる町づくりをしたい
自然なウィッグ・エクステ通販のリネアストリア
幼い頃から髪の毛の一部が生えてこず、コンプレックスに。
神主、DJ、編集者を経て、看護師として東日本大震災の災害派遣に参加した。そこで「地域の力」を目の当たりにし、地域住民参加型の「暮らしの保健室」を開設。
神主、DJ、編集者、そして看護師、色んな仕事をしてきました。まわりから「ぶっ飛んだ経歴だね」とよく言われます。
現在は施設勤務の看護師をしながら「暮らしの保健室」を立ち上げ、地域とかかわる日々。日常のもやもや、治療で心配なこと、誰かに話を聞いてもらいたい、そんな気持ちを受け止められたらと思い始めました。
今では、いろいろな世代の方が集まる交流の場となり、なんだか楽しそう、あそこに行けば誰か話し相手がいるかな、と老若男女いろんな人が気軽に訪れてくれるようになりました。
赤ちゃんから大人まで、どんな方でも利用できる地域に開かれた「縁側」のような場所を目指しています。
社会に出て初めての仕事は神主でした。神事はもちろん、町の寄り合いや消防団の集まりなど、神主は人前に出ることの多い職業なんです。地域で困りごとがあれば声がかかる、町の相談役でもあります。
私は小さい頃から髪の毛の一部が生えてこないことにコンプレックスを感じていて、神事では写真を撮られることも多く、ウィッグを本格的に使い始めたのもこの頃。髪色や髪型が自由にできるので、今ではすっかり体の一部です。長いお付き合いをさせてもらっています。
神主になってしばらく経った頃、目の病気で入院することになったんです。病院でたまたま目に止まった雑誌を手に取って見てみると、そこには私の知らない世界が存在しました。町の人たちの声を聞くカルチャー誌で、写るのは子どもから大人まで、幅広い世代の人たち。ホワイトボードにメッセージを掲げ、自己を表現する。その姿は私に鮮烈な印象を与えました。
「私が見ている世界は狭いのかもしれない」そんな疑問がふつふつと沸き立ちました。退院後もその思いは私の中にとどまり続け「挑戦してみよう」と思い立ち、その雑誌の編集部へ向かいました。
突然の訪問にもかかわらず、研修生として迎え入れてくれました。神主を離れ、新しい世界へと足を踏み入れた瞬間でした。取材や営業活動に同行させてもらうと、今まで接点がなかった人たちとの出会いも多く、全てが新鮮な体験でした。
しかし、何かを生み出すには知識が浅く、特別なスキルもない私にとっては、自分の未熟さを感じた体験でもありました。自立するには専門性が必要だ、と新たな道を模索することになり、そうしてたどりついたのが看護師という職業でした。
看護師として、最初の配属は救急でした。昼夜問わず運ばれてくる患者さんの命を助ける、張り詰めた緊張感と、回復へ向かう目途がたった時の安堵、やりがいのある現場でした。
そんな看護師1年目に東日本大震災が起こりました。勤務していたのがDMATを備える病院だったため、すぐに現場へのチーム派遣が始まりました。
DMATとは災害派遣医療チームのことで、災害の急性期に活動する専門的な医療チームのことです。
災害発生から48時間以内の急性期から、それ以降も継続して現場への派遣が行われました。災害発生から少し経った頃、専門チーム以外からも現地派遣への志願者が募られました。1年目の私にできることはあるだろうか?そんな不安もありましたが、「行かなきゃ」という思いが私を突き動かしました。
災害現場では、日ごとに避難所や介護施設など様々な場所に割り振られました。看護師1年目の私は知識が薄く、経験も浅い。カルテもない中で、お薬の内容や患者さんの主張から、すべてを観察する力が求められました。高齢になると病気は一つではなく、複合的な原因から薬を処方されていることも多いんです。
多角的に判断しながらも患者さんの思いをくみ取る必要があります。先輩のようにうまくできない自分が悔しかった。人生で一番無力さを感じた瞬間かもしれません。
1週間ほどの滞在でしたが、次に行くときにはこんな風に関わりたい、こんなこともできれば……と勉強しないといけないことが山ほど見つかりました。悔しさをバネに、東京に帰ってからも勉強を重ねました。
それからも継続して被災地を訪れ、1〜2週間滞在し、戻ってくるという生活を約1年続けました。そのたびに問題点を見つけ、改善する、看護で一番大事なことを現場で身をもって学んだ1年となりました。
被災地で学んだことは看護師としてのスキルだけではありませんでした。非常時の現場では、専門職も地域住民もみんなが自分の持っているスキルを出し合って、足りないところをカバーし合っていました。
保育士の方が子どもたちを集めて面倒をみる、地域のおばあちゃんたちが小さい子に「おトイレついて行ってあげるよ」と声かけをするなど、みんなで安心して過ごせる空間を生み出していました。
日常から顔の見える関係性があるからこそ、何かあった時には安心して助け合える。「地域の力」という灯火が私の心にともった瞬間だったと思います。
被災地と行ったり来たりの生活から救急の現場に戻り、少しずつ担当する科を変えながら現在に至ります。その間も心の灯火は消えることなく、私を照らし続けてくれていたように思います。
そして昨年「暮らしの保健室」をスタートしました。今の町に移り住んで4年ほど。町が区画整理事業で生まれ変わろうとしていました。変化の波に流されてしまわないよう、手を取り合い支えあえる町づくりをしたいと思ったことがきっかけです。
まずは私にできること、私だからできること、自分探しの旅でもありました。そうしてたどり着いた暮らしの保健室では、子育てや介護の相談はもちろん、そこに集まる人が自分の得意なものをお薬として処方してくれる、住民参加型の暮らしの保健室になりました。この町らしさが出ているのが特色です。
アロマの先生と一緒に心安らぐ香りの保健室を作ったり、心理士さんとこころに効く本の保健室を作ったり。ウィッグの相談に来られる方もいらっしゃいます。「お医者さんから脱毛の副作用がある抗がん剤を使うって言われた」「産後の抜け毛がひどくて…」、そんな不安も抱きしめて一緒に乗り越えていけたらいいな。
私の挑戦は始まったばかりです。つながりに感謝しながら、私もこの町のみんなと一緒に楽しんでいこうと思います。
writer:Naka Kokoro