
なりたい自分を抱きしめて オルカ
ウィッグと出会えたから、人前で歌うという選択をしました。
自然なウィッグ・エクステ通販のリネアストリア
Instagram:ma0.710
着用ウィッグ:恋するプリーメル(販売終了予定)
溶接工場を営んでいた父が直腸がんを患ったことをきっかけに、溶接について学び、溶接工として働きはじめた矢先、乳がんであることが発覚する。
現在は、復職を目指しながら、家族を献身的に支えている。
ほんの2年ほど前のことなのに、もうあの頃は戻らないのだなと、そう思うんです。自宅の工房、お父さんと並んで座り、溶接の「いろは」から教えてもらった。焦げた鉄の匂い、暗闇に飛び散る火花、カンカンというハンマーの音。私のギザギザな溶接痕をきれいに整えてくれて、ちょっと得意げな父。ホットコーヒー片手に夜遅くまで他愛のない話をした、思えば贅沢な時間。
あれから2年。直腸がん末期だった父は他界し、私自身も乳がんを患うという、まさに激動の2年間でした。
小学生の頃、「野ブタをプロデュース」というドラマが好きでした。地味で内気な女の子が素敵に変身していく物語です。
私自身、家では賑やかなのに学校ではなぜか内気で、「こんな事言ったら嫌われるかも」と空気を読みすぎる子でした。だから、毎週テレビの前で「私も変われるんだ」と自分を重ねて見ていたのだと思います。
その頃の夢は俳優になること。学生時代にはオーディションを受けたりもしていましたが、結局は高校卒業して地元で就職。
周りからは、華やかな世界に憧れるより現実を見なさいとか言われていましたし、私自身もまだ夢を貫けるほど強くはなかったのだと思います。
その就職先も退職したり、その後少しフラフラしている時期があったりと、両親にはすごく心配をかけたな、わがまま娘ですみません、って今は思います。
父の直腸がんですが、分かった時にはもう末期でした。一緒にいられる時間はそう長くないしと、思い切ってその時の仕事を辞めて父の看病に専念しました。
これまでの私は、「家に帰ったら美味しいご飯があるのが当たり前」みたいな、実家暮らしですごく両親に甘えていたんだと思います。だからこそ、今回はちゃんと親孝行したいという思いが強かったんです。
余命宣告を受けてからも父は仕事を続けました。父は祖父の代から続く溶接工場の経営者で自身も職人。中学卒業からこの道一筋で、高速道路や高層ビルの鋼材なんかも手掛けていました。体調が悪化していく父を病院に連れて行ったり、工房での仕事を手伝ったりする日々。
近くで父の仕事を見ている内に、私の中で溶接に興味が出てきたんです。喜んでくれるかなと、「私も溶接やってみたい」と言うと案の定、父は大喜び。溶接の基礎技術から教えてくれて、練習の成果を見せたり質問したりすると、すごい笑顔になってくれました。
子供の頃から仕事をする父の背中をよく見ていました。でも、なんと自分がその隣に並び、溶接をやっているとは…予想してなかったですね。父は無口な方だし、二人で人生について語り合った、とかはなかったです(笑)。
ただ、一緒に仕事をする、近くの公園をドライブする、ホームセンターの工具コーナーを一緒に回ったり、とても穏やかな時間だったなと。少しは親孝行、できたのかな。
父が他界して、私は就職をしました。鉄工所に、溶接工として。父が一生をかけたこの仕事を、私もやってみたいと思ったんです。
でも、本格的に溶接の道に進んで痛感させられたのは、私は父の仕事を甘く見ていたな、ということでした。父が簡単そうにやっていたので私も!と思っていたけど、とんでもなかった。
でも、本格的に溶接の道に進んで痛感させられたのは、私は父の仕事を甘く見ていたな、ということでした。父が簡単そうにやっていたので私も!と思っていたけど、とんでもなかった。
悪戦苦闘しながらも、それでもようやく第一歩を踏み出したという頃でした。
以前から脇のリンパ節のあたりが少し気になる事はあったのですが、病院で診てもらうと、なんと「乳がん」だと。
悲しいというより、驚きでした。父が亡くなって母と二人暮らし、生活はどうしようか、入院?治療費は?とか色々頭を巡り、なにより溶接の仕事を始めたばかりだったので、仕事をどうしようか、と。一歩近づけたと思った父の背中が、また遠のいていく、そんな感覚でした。
やっぱり女性として、胸を切らなきゃならない、抗がん剤で髪が抜ける、というのはショックでした。自分の中では、落ち込んだってしょうがないと分かってはいるんです。でも、この先どうすればって考え始めると、暗い気持ちからどうしても抜け出せなかった。
そんな時にリネアストリアのウィッグを見つけて、なんだか心に「ときめき」が戻ったんです。満たされたというか、前を向くきっかけをくれた。ウィッグの存在はすごく大きかった。
ほんの短い間に私は色々なものを喪った、そう思っていました。父もそうだし、生まれ育った自宅兼工房も手放しました。そして自分の胸、髪も。
でも、改めて気づけたのは、全部が当たり前じゃなかったって事です。暖かい家があること、美味しい夜ごはんがあること。行きたい所にどこでも行けた、やりたい事が全部できた。元気な自分の体があったから、隣で支えてくれる人がいたから。今まで当然だと思っていたものが、全然当たり前じゃなかったと、はじめて心の底から感謝できたんです。喪失、ばかりでは全然なかった。
私の乳がん、これが遺伝性だという診断を聞いた時、ちょっと変なんですけど、「そうだよね」って思ったんです。私の体の中のこのがんは、まぎれもなく私の父から来たもの。お父さんは隣にいないけど、「ほら、今でもちゃんとつながってるでしょ」って、そんな感覚。
溶接の仕事はとてもハードです。
1000度を超える火花で火傷もする、冬の工場は凍えるほど寒い、経営だって大変だったと思う。それでも弱音ひとつ吐かずに頑張っていた父の姿。2年前のあの時間に戻れるのなら、もっと色々教えてもらいたかったし、父も私に伝えたいことが沢山あったんじゃないかな。でも、父から渡ってきた「がん」が私の体の中にはいて、そのお陰で私はたくさん気付かされ教えられて、少しは成長できたのかな、とも思うんです。
最近はよく、母にご飯を作ります。がんという病気を自分は経験したからこそ、お母さんには健康でいてほしい。そう思って栄養バランスなども考えて手料理。ご飯を作ってもらって当たり前と考えていた以前の自分からはだいぶ変わりました(笑)。
実は、手術のせいで腕が上がりにくかったり目の手術もしていたりと、溶接の現場に復帰できるかは分からないんです。でも、叶うなら今の会社に戻り、この仕事に携わりたい。私が休んでいる間いつも気遣って支えてくれた素敵な人達がいるので。
それに、父が仕事を通じて社会を支え続けたように、私も誰かを支えられたら、と思うんです。色々な痛みや挫折を経験した、そして沢山の人の手に、仕事に、自分が支えられていたことに気づけた。寄り道をしたかもしれない私だからこそ、見える景色、気づける事、支えてあげられる人がいるんじゃないかなと思うんです。
不安はあるけれどきっと大丈夫。今でもここで、父が守ってくれている、そう感じられるので。
writer:Murase Jumpei