TOPみんなでつくるリネアストリアウィッグは、わたしと咲く。清宮花衣音「今の私がいるのはたくさんの人たちのおかげ」

着用ウィッグ:天使のルシアミディ

命の決断

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妊娠5ヶ月目。突然、私はがん患者になりました。

まるでドラマのような出来事だった。妊婦健診で見つかった腫瘍が卵巣がんという診断。そして先生から告げられたのは、お腹の小さな命をとるか、私の命をとるかという選択。

日本の法律では妊娠22週までに判断しなければならず、それ以降はどんな理由があっても変えることはできないのです。診断を受けてすぐには向き合えず、気づけば20週目。判断を迫られ、胸が引き裂かれるような2週間でした。

病気の発覚

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不妊治療を何年間も続けてようやく授かった命でした。

治療のために通院をしていた病院で、右卵巣にチョコレート膿疱(のうほう)の診断を受けていました。チョコレート膿疱とは、子宮の内側にあるはずの子宮内膜が卵巣にできてしまうという子宮内膜症のひとつ。「40歳以上になるとがん化する可能性もあるから、妊娠出産後に手術をしよう」先生と相談し、私は先に妊娠を望むことにしました。

赤ちゃんを授かったとき、とてもとても嬉しかった。待ち望んでいた小さな命がお腹の中で少しずつ成長している。私もお母さんになるんだと幸せを感じる毎日。このまま順調に育って出産できる。そう信じて疑わなかったんです。

しかし、妊娠4ヶ月目の健診日。「右卵巣に腫瘍のようなものがあるから一度MRI検査をしよう」と先生から突然、告げられました。この時点ではあまり深く考えてなかった。「チョコレート膿疱のことかな?」なんてのんびりしたことを考えていましたね。

初めて私の身体によくないことが起こっているとわかったのは、MRI検査の結果を聞いたとき。夫と病院へ呼ばれ、チョコレート嚢胞が悪性腫瘍になっている可能性がかなり高いこと。病理検査の結果によっては妊娠の継続も難しいということを告げられました。 病理検査の方法は、お腹の赤ちゃんを傷つけないように行う開腹手術。とても怖かった。けれど、赤ちゃんを諦める選択肢はなかったので耐えるしかなかった。お腹を開いてみたら「思ったよりも大丈夫だった」そう言って妊娠を継続できるって信じていたから。

しかし、結果は悪性の腫瘍。「卵巣がん」でした。それも、想像を上回るくらいに進行した大きさの腫瘍でした。

治療方針を決める前に、お腹の赤ちゃんをどうするかの話になりました。
私の身体を考えると、赤ちゃんは諦めて今すぐにでも腫瘍の摘出手術と抗がん剤治療を開始するべき。腫瘍の大きさから卵巣と子宮の全摘出は避けられないだろう。そうしたらもう二度と私の身体では赤ちゃんを望めない。妊娠の継続を希望するとその期間、腫瘍はどんどん大きくなるだろう。そして、何より赤ちゃんの「出産」はできたとしても、どんな状態で産まれてくるのかもわからないほどのリスクがある。出産までに腫瘍は大きくなり、私の身体がもたないかもしれない。

私たち夫婦が話し合える期間は限られていました。一言でいえば「地獄」のような時間でした。

限られた時間

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何度も、何度も夫と話し合いをしました。私はお腹の赤ちゃんを産みたかった。でも、私に「生きていてほしい」と、大切に思ってくれている夫や両親の気持ちもすごく伝わってくるんです。赤ちゃんにも影響がでるかもしれない。その時に、私に何かがあれば夫にこれからのすべてを背負わせていいのだろうか。でも、産みたい。 夫以外の他の誰にも共有できない苦しさを二人で抱えて、どうしたらいいのか私たちでさえわからなかった。 どんなに考えて泣いていても時間は限られているので、一度は「赤ちゃんは諦めて、手術をします」と病院に電話をしたんです。

電話を切ったあとに「本当にこれでいい?」という気持ちが溢れてきてしまって。病院に迷惑になるとわかっていても、また電話をしては「やっぱり産みたいです」「やっぱり手術を」と何度も繰り返しました。

そんな時でした。女医さんが私に声を掛けてくれたのは。
「大丈夫だから。簡単に決められることではないし、当日まで何度も考え直していいからね。どちらの決断になったとしても、二人が選んだその決断は絶対に正しいから」
この言葉に心から救われたんです。当時の私にとって、太陽みたいだった。与えられた時間をいっぱい費やしてでた答えは「産みたい」という気持ちでした。だって、お腹の中で赤ちゃんが元気に動いていたんです。もう自分の気持ち、そして赤ちゃんをこれ以上は無視できなかった。「迷惑をかけてしまうかもしれない。だけど、産みたいの。産ませて」夫や家族に気持ちを伝えました。

そう決まってから入院をして、できるだけ長くお腹の中で赤ちゃんを育てることが目標になりました。早産は赤ちゃんの身体に様々な影響がでるかもしれない。生産期(ルビ:37週以降)までは厳しいとは思うけど、なんとか妊娠30週を越えるまで。赤ちゃんの為にもう頑張るしかない。その気持ちだけでした。

しかし、がんの進行は思いのほか進んでいき、腫瘍が他の臓器を圧迫し背中には激痛が走る毎日。さらにお腹に水が溜まる腹水の症状もでるように。これ以上の大きさになっていくと臓器が破裂するかもしれない。私も、赤ちゃんも身体が耐えられないということで緊急で出産をしました。

入院してから1ヶ月後。妊娠25週6日。暖かい春の日。体重698gの小さな身体でとても小さな産声をあげて女の子が産まれてきてくれました。身体の痛みや精神的にも辛くて私も限界を超えそうだったけど、産声を聞けて本当に良かったと心から安堵したことを覚えています。

治療の開始

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娘はNICU(新生児特定集中治療室)で育てていただき、私はがん治療をはじめました。腫瘍の大きさは手術ができないほどに越えていて、先に抗がん剤をして小さくしていくということでした。ただでさえ産後でボロボロの弱っている身体に抗がん剤をぶちこむ。それは本当に耐え難い毎日でした。腹痛や下痢。そして髪は脱毛し、腹水が胃を圧迫する影響で、ご飯は食べられない。お腹だけは水が溜まって膨らむのに身体は痩せ細っていきました。4日に1回ほどお腹の水を抜いてもらうんです。その後に唯一、固形物が口にできた。すぐにまた水がたまって苦しくなるけれど、そのご飯の時間がたまらなく幸せでした。

そして何よりも苦しい治療に耐えることができたのは、周りが驚くぐらいにどんどん娘が成長してくれたから。 出産から4ヶ月後。夏の暑い日。私が先に退院し、2週間後に娘が退院。私が病院へ迎えに行けたことが嬉しくて。ようやく家族みんなで過ごせる時間ができたことが本当に幸せでした。

これから

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娘が元気で成長していることは、夫や両親はもちろんですが、NICUの先生や看護師さんの存在が本当に大きかった。そして、今の私がいるのは太陽みたいな女医さんのおかげです。

今春、そんなたくさんの人達のおかげで娘が2歳の誕生日を迎えることができました。

今も入退院を繰り返しながら抗がん剤を続けています。「なんで、私がこんなことに」と思ったことは何度もある。だけど「私にはきっとこの経験が必要だった」そう思える日が来るように、私もいつか誰かの力になりたいです。

writer:Naito Shiho

メッセージ

生きていると楽しいことも辛いこともいろいろある。逃げられない、向き合うしかないときもある。だったらわたしは楽しいもしんどいもどんな感情も全部味わい尽くしたい。それがわたしの思う生きるということ。

2024年5月10日、私たちは初めて清宮花衣音様にお会いしました。
インタビューをさせていただく中で、お子様がとても可愛いとおっしゃられる姿がとても印象的でした。そして、ご家族3人での生活は決して当たり前ではなく、一つ一つが奇跡なんですと話される姿はとても力強く、とてもキラキラしていました。
インタビュー後の撮影には旦那様も一緒にお越しくださり、お二人の愛溢れるやりとりに私たちもとても幸せな気分になりました。

2024年8月15日 清宮様のご逝去に接し、私たちは驚きと悲しみに涙が止まりませんでした。
尊い命を一生懸命に生きられた清宮様、私たちのインタビューにもたくさんのお力添えをいただきました。リネアストリアスタッフ一同、清宮様との出会いに心より感謝いたします。

私たちは清宮様の訃報を皆様にお伝えすべきか、インタビューを掲載してもよいのか、何度も何度も検討を重ねました。ご家族の皆様にもご相談させていただき、この度インタビューの掲載をさせていただく運びとなりました。
私たちの思いを受け止め、背中を押してくださったご家族の皆様に心より御礼申し上げます。

清宮様のご恩情に深く感謝するとともに心よりご冥福をお祈り申し上げます。

リネアストリア スタッフ一同

ご家族様からのメッセージ

妻が生きた2024年が終わり、2025年を迎えました。

妊娠中に卵巣がんになり、壮絶な出産を経て、妻は小さな小さな赤ちゃんを産みました。出産から約2年半。母として生き、その生涯を閉じました。

妻は、明るくて優しく、人の気持ちに寄り添えるすばらしい女性です。おしゃれが好きで、佇まいや生き様が本当に美しい人でした。
そんな彼女が度重なる抗がん剤の副作用に苦しみながら耐える姿を一番近くで見て、支え続けた2年半はわたしにとっても簡単な日々ではありませんでした。
あんなに快活で、ひとりでふらっと海外に行ってしまうほど行動力のある彼女は見る影もなく、倦怠感や痛みから横になっているだけの日々も多くありました。

それでも、調子のいい日に外食したり散歩したりする際にはメイクをし、おしゃれな洋服を着て、ウィッグを身につけ出かけました。
その一瞬だけ、妻が元気な頃に戻ったような感覚を得ることができました。とてもとても可愛くて、とてもとても愛おしかったです。
しゃべれるようになった娘も、その姿を見て「ママかわいい」とうれしそうな声を上げていました。

つらいこと、しんどいこと、不安なことばかりの2年半だったと思います。
それでもその間、妻は「今がいちばん幸せ」と何度も何度も言ってくれました。
最後の最後まで、彼女は彼女らしく生きてくれました。
強く、明るく、穏やかでしなやかな、美しい人でした。

残された2歳の娘とふたりで生活する日々は、とてもじゃないけど楽なものではありません。地獄だなとも思います。
「ママがわたしを産んでくれてよかった。パパがわたしを育ててくれてよかった。」
娘がそうやって感じることができるその日まで、泣いてばかりのこの地獄を、どうにかこうにか歩き続けたいと思います。

ママ、しんどかったね。よくがんばったね。今はゆっくり休んでね。またいつか会いましょう。たくさんデートしてください。大好きです。

夫より