TOPみんなでつくるリネアストリアウィッグは、わたしと咲く。key「自分のやりたいことに猪突猛進」

幼稚園の時に脱毛症を発症。その後、完治するも小学3年生で再発。
中学時代から目標にしていた「看護師」と「助産師」の資格を取得。2023年5月から離島医療の実現のために日本最南端の産院で活躍。

助産師という夢

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人生には、願えばきっと叶うこと、望みもしないのにやってくること、そんな二つがあるような気がします。私にとって望みもしないのにやってきたこと、それは「脱毛症」、願って努力の上に叶えられたこと、それは「助産師になるという夢」。

助産師って読んで字のごとく「お産を助ける」人のことです。日本で唯一女性にしかなれない職業なんですよ。出産のサポートはもちろん、妊娠中、更年期や婦人科系の病気など女性の一生を支える仕事なんです。中学生の時になりたいと願い、そして私が夢を叶えて3年が経ちました。

幼少期から脱毛症に

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私が脱毛症になったのは幼稚園の年長の時でした。幼稚園にはバンダナを着けて通っていました。小学生になり一度髪の毛が生えそろったものの、3年生の時に再発。はじめは円形に抜けた部分の上の髪をくくって隠していました。でも走ったりすると見えてしまって。それを見つけた友だちから「見せて」と言われたり、からかわれるのは辛かったな。そんなこともストレスになってしまったのか、また全部抜けてしまいました。前回のようにバンダナで過ごすには難しい年齢にさしかかっていたこともあり、母が「ウィッグを買いに行こう」と大型スーパーに連れて行ってくれました。

その頃はまだ、医療用ウィッグが一般的ではない時代。お店に並んでいるのはミセス用のショートのウィッグばかり。いわゆるボリュームアップに使用されるクリップで留めるタイプのもの。地毛がない私には着けられない。それでも私にはどうしてもウィッグが必要だった。「脱毛症の私には選択肢はないんだ」幼心にそう思ったことを覚えています。

母と相談し、文房具用の両面テープを頭皮に貼って固定することにしました。そしてなんとか日常は過ごせるようになったけれど、5年間続けていたチアリーディングはやめなければならなかった。チアリーディングに不可欠なポニーテールができないから。「脱毛症の私は諦めざるを得ない」自分にそう言い聞かせました。

青天の霹靂

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ウィッグでの学校生活に慣れたころ、ある事件が起こりました。アイマスクを使って視覚障害がある方の世界を体験する授業がありました。普段の教室で行う授業と違うこともありみんなワクワクしていました。私の体験が終わり後ろで待っていた子が「わたしの番!」と私のアイマスクをつかみ取ったんです。そのとたん周りから「キャー」と悲鳴があがりました。何が起こったかわからないけれど、大変なことが起こったことだけはわかりました。周りを見渡すとそこにいるみんなが自分を見ていたんです。視線の先をたどるとウィッグがない!両面テープでガチガチに留めていたはずなのに。アイマスクと一緒にウィッグが飛んでいってしまっていたのです。もう何も考えることができず、ウィッグをひっつかみ、無我夢中で逃げ出しました。気が付いたらトイレで大号泣していました。

「何が起こってしまったんだろう」「明日からはもう学校にこれないかもしれない」色んな思いが駆け巡り涙が止まりませんでした。泣いて泣いて、そうしているうちにふと思ったんです。「アイマスクをひっぱったあの子はどう思っているんだろう」と。
「自分のせいだ。自分が勢いよくひっぱってしまったから。」そんな風に考えて落ち込んでいるのかな?責任を感じてみんなの前で泣いてしまっているのでは?

その思いは私をさらに不安にさせました。彼女のことがどうしても気になり、勇気を出して教室に戻りました。案の定、彼女は動揺した表情で席に座っていました。私を見つけるとそばにきて何度も何度も謝るのです。 「悪くないよ、仕方のないことだし」と返事をするので精一杯。どう答えていいのかわかりませんでした。起きたことを受け止めることができず、心と頭が追いつかなかった。「誰にもどうにもできないことがある」私の心に大きく刻まれました。

夢を叶えるために

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私は脱毛症の他に、喘息やアトピーもあったので、小児科へかかる機会が人より多かったように思います。やさしく寄り添ってくれる看護師さんに憧れて「いつか私もそんな風になりたい」と思うようになっていきました。

中学生くらいになってくると小児科に来ている子たちが自分より小さい子ばかりになるんです。時には生後数か月の赤ちゃんと出会うことも。「かわいいな〜」と見ていると、母から「赤ちゃんが好きなら助産師という仕事もあるよ」と教えてもらったんです。母のその言葉を足がかりに私の夢が形作られて行ったように思います。それでも高校生の時に進路で悩んだこともありましたが、その時に友だちが言ってくれた「keyにお産を取ってもらいたいな」この言葉が私を助産師の道へ導いてくれました。

助産師になるには看護師資格も必要になります。つまり「看護師」「助産師」と2つの国家資格に合格しなければいけないんです。看護師資格をとってから翌年以降に助産師資格を取る方が多い中、私はどうしても助産師として世に出たかった。そのため、学部内の助産師コース選抜試験を受け、看護と助産の勉強を平行して行い、2つの国家資格の勉強と実習をこなしました。そして看護実習の合間を縫って、助産師実習に参加しました。お産実習はいつ呼び出しがあるかわからないので24時間待機姿勢で待たなければならず数ヶ月にわたり実習先近くのホテルで生活をしました。日中は看護実習でくたくたになり、ホテルへ戻って試験勉強。お産が始まったと連絡を受け、夜中3時にタクシーでかけつけることも。

大変でしたが、自分自身の手で命を取り上げることの尊さにこだわり続けた結果、私は最短の4年で助産師として社会に出ることができました。

新たな挑戦

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助産師として過ごす日々は緊張の連続です。赤ちゃんの心音や母体の子宮収縮状態など、些細な変化も見落とすわけにはいきません。日本は世界で一番安全にお産ができる国と言われています。それでも母も子も命をかけて行うお産。何度立ち会っても「無事に生まれてこられることは奇跡なんだ」と、そう思います。

そして私は、2023年5月から日本最南端の産院で働きます(※2023年2月当時)。大学の頃からの夢だった離島医療を実現するために。今まで働いていた病院は、助産師が30〜40人いたけれど、次の病院では3人しかいません。現場での判断など、今まで以上の責任の重さにハラハラもしますが、新しい環境にワクワクの方が大きいかな。
人生には変えられないこともある。だからこそ、願って努力して叶えられることは最大限に楽しみたい。自分のやりたいことに猪突猛進。一度きりの人生、全力で進んで行きたいなと思います。

writer:Tatsuoka Yuki

メッセージ

未来は自分で切りひらく