やらない後悔よりやって後悔したい ここあ
このままでいいんだ。これが私なんだって本当の意味で受け入れられた気がした
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着用ウィッグ:約束のボブ
2020年10月にすい臓がんの告知を受ける。
現在も抗がん剤治療を続けながら、3人のお子様の育児や仕事に奮闘中。
私がすい臓がんと告知されたのは2020年10月。
今思うと8月の終わり頃からお腹が張るような感じがしていた気がする。小3、中3、高2の息子たちが夏休み中ということもあり毎日忙しく「便秘かな?」くらいに思って過ごしていました。疲れやすいなと感じることはあったけれど「病院に行こう」と思うほどでもなかったかな。だんだんお腹の張りが強くなり、ごはんが食べにくいと感じ出したのが9月の終わり頃。市販の胃腸薬を飲んでみるも改善はせず、次第に食べても吐いてしまうようになり「さすがにおかしい」と思い近所の病院へ。
病院へ行くと「胃と十二指腸の動きが悪い」とのことで整腸剤をもらい様子をみることに。薬を飲んでも状態は変わらず、翌日も病院へ。「十二指腸に石のようにかたいものがあるから大きい病院で調べてもらった方がいい」と言われ紹介状を書いてもらうことに。
食べても吐いてしまう状況が続いていたので、お腹には何も入っていないはず。それなのに身体全体は鉛のように重くて足を一歩前に出すのも一苦労な状態。紹介先の病院では車いすで移動しなければならないほどでした。そんなふらふらな状況もあり先生から「今日このまま入院して検査しましょう」と言われました。
「今日?入院?」予想だにしない言葉に思考が停止してしまいました。
だって家には夫と三人の子どもたち。私が家を不在にしたことは今まで一度もないんです。
家族のこと、子どもたちの学校のことなど、すごいスピードで私の頭の中を駆け巡りました。
「今日は無理です。帰らせてください!」とにかく一旦家に帰らなければ。その思いが私の重い体を突き動かしました。
家に帰り、一晩でやるべきことは盛りだくさんでした。洗濯機の使い方をメモに書き、燃えるごみと資源ごみの日を見える所に貼り出し、全員が明日からの生活もいつも通り送れるように。そして翌朝「1週間で帰ってくるから」と検査入院へ向かいました。
病院へ着くと検査が次々と続きました。元気なときには平気だった胃カメラが、この時は我慢できないくらい苦しくて。「やめてください」ってジェスチャーで伝えると、すぐに眠って検査する方法に変更。そして目が覚めると片方の鼻からチューブが出ていたんです。チューブの先には緑色の液体がたまっていて、どうも私の体の中から出てきている様子。信じられない光景でした。「片方の鼻だけ大きくなったらどうしよう」。今思うと笑ってしまうけど、本気で心配しました。
それでもチューブのおかげで吐き気が治まり楽になりました。一方で飲食禁止を言い渡され、口にできるのは氷と飴のみ。医師から「話があるから家族を呼ぶように」と告げられました。
翌日集まった家族とともに「すい臓がん」の告知を受けました。
体調不良の原因がわかって少しすっきりした気持ちもありつつ「すい臓」ってことには大きな衝撃。すい臓がん=助からないってイメージがあったから。
でもそれを払拭するように医師から「手術できます。一緒に頑張りましょう」と力強い言葉が続き、それほど不安でなかった気がする。
この日から私とがんとの闘いが始まりました。
医師からの説明では、腫瘍を取る手術をしたいけれど大きな血管が近くにあり、できる状況にはない。まずは食事をとれるように胃と腸をつなぐバイパス手術をして、ご飯が食べられるようになったら抗がん剤治療をしていくということでした。バイパス手術は告知から3日後に行われました。
手術は無事終了。それなのに私の体はバイパスを使ってくれなかった。私の食べたい気持ちとは裏腹に体は食べ物を受けつけてくれない。水と高カロリージュースだけで過ごす日々。食事の時間がくるとカーテン越しにはごはんの美味しい匂い。
私の体はなんでバイパスを使ってくれないんだろう。せっかく手術して作ったのに。
食べられないと次の治療に進むこともできず。ただ入院しているだけのむなしくてつらい日々が何日も過ぎていきました。
そんな入院生活の楽しみはリハビリの時間でした。私と同年代の女性の先生。お子さんが三人いて共通点も多く、リハビリの時間では足りないくらい話が盛り上がりました。食べられるようになったらケーキが食べたいとか、子どもが小さかった頃の思い出話など。他愛ない話かもしれないけれど、病気のことを忘れられる時間でした。
同部屋の100歳のおばあちゃんとも仲良くなったんですよ。おばあちゃんは骨折で入院していて、お孫さんの結婚式に行けなくなったと落ち込んでいました。おばあちゃんは動くのも一苦労だったので、ナースコールを代わりに押してあげると「このご恩は一生忘れません」ってちょっと大げさと思えるほど喜んでくれたり、私がリハビリの時間に部屋の外から手を振るとにっこり嬉しそうに振りかえしてくれたり。
私のぽっかり空いた心の穴にほんのり明かりが灯ったような気分でした。
家族の存在も大きな支えでした。面会も難しいコロナ渦だったけれど週に一度家族と会うことを許可されました。毎日電話もしていたけれどやっぱり触れられるっていうのはすごく大きかったですね。末っ子はまだ小学3年生。面会に来ると、私のひざにちょこんと座るんです。人がくるとさっと離れちゃうんですけどね。週に1回の限られた時間だったけど触れあえる、ぬくもりが感じられる。本当にかけがえのない時間でした。
バイパスを使ってくれなかった体も少しずつご飯を受け入れてくれるようになり、抗がん剤治療とがんの摘出手術。検査入院のはずが予想以上に長くなった入院生活。落ち込んでいる私を見て医師は「クリスマスには帰りたいよね。頑張りましょう」と声をかけてくださり、12月23日に退院。「1週間で帰るからね」と家を出てから3か月近くが経っていました。
家に帰ると父がいつもより大きなクリスマスケーキを買って待っていてくれました。家族みんなで食べたケーキの味は格別でした。言葉で表現するなら幸せの味かな。
がんの告知から約3年。今も抗がん剤治療中です。副作用で苦しむ日には、何も言わなくても子どもたちは家事を手伝ってくれるようになりました。高校生だった長男は成人し、次男は高校生に。三男は小学6年生に。みんなたくましく、優しく育ってくれています。
私自身はバイトを始めました。立ち仕事で膝がガクガク、筋肉痛になることも。休みの日には、食べられなかった日々を取り返すように好きなものを食べに出かけるのが今一番の楽しみ!コロナも落ち着いたので海外旅行にも行こうと思っています。
今の夢は三男の卒業式に出ること。春が待ち遠しいな。その次の春に迎える次男の高校卒業式にも出たい。もちろん成人するのも見たい。私の夢が尽きることはありません。
泣いたって 笑ったって 結果が一緒なら毎日笑って過ごしていきたいな。
writer:Naka Kokoro