TOPみんなでつくるリネアストリアウィッグは、わたしと咲く。satomi「生きるを教えたい」

皮膚がんの一種であるメラノーマを発症。
認可を受けたばかりの新薬による治療が成功するも、再発。
5年生存率3%と宣告されるも寛解し現在も教職を続け、がんの経験を通して自身が学んだことを教師として伝えている。

普通を失うということ

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私は元々自分の髪の毛がすごく好きで、ヘアアレンジした後ろ姿を合わせ鏡で眺めたりしていたんです。そんな時、頭頂部に大きなほくろが出来ているのを見つけて。それがどんどん大きくなってきたからおかしいなと思って最初は町のクリニックに行ったんです。悪いものかもしれないからと大きな大学病院を紹介してもらいました。そこで生検にかけたらメラノーマと呼ばれる皮膚のがんだということが発覚しました。

メラノーマは皮膚がんの一種で、ほくろみたいな見た目をしています。悪性度が高いのでメラノーマのステージ4=余命宣告というのがセオリーだったんですけど、私は2019年に認可を受けたばかりの新薬で治療が上手くいったんです。効くかどうかわからない新薬で治療をするのは、どんなリスクや副作用があるかわからない状態では正直怖いなと思いました。実際に副作用の網膜剥離の影響で目が見えなくなってしまって、生きることをとるのか、目が見えることをとるのかという究極の選択が訪れました。でも良い結果が出て、副作用はあったけど結果オーライでした。

メラノーマを切除するだけで終わりなら良かったのに、周辺の組織も大きく切り取らないといけなくて。ちょっとした傷なら皮膚同士を縫い合わせればいいんですけど、それも出来ないくらい範囲が大きかったんです。しかも、お腹の皮膚を植皮したらもうそこには髪が生えないと言われました。

まっすぐなストレートヘアが小さい頃から自慢だったので、この世の終わりかと思うくらいつらかったです。髪への執着心から、手術の直前まで自分の髪の毛をカメラで撮影したり、バリカンで剃った髪をくださいと主治医に頼みこみました。植皮が終わり何も生えてない皮膚が植わった頭を見て、ショックでひたすら泣いちゃって。入浴介助してくれる看護婦さんに「ここだからね」って手を持っていかれたときも「こんなことになってるの」ってお風呂場で絶叫しました。手術の後、目の前を歩いていったロングヘアの女性のきれいな髪を見て泣きました。その時のことを思い出すと今でも涙が出てきます。普通にあったはずのものが失われていくなんて、がんになる前は思いもしませんでした。

いつかは自分の子供が欲しいと思っていたんです。そういう幸せっていうのはきっと当たり前に来るものだと思っていたし、周りの友達もそうだったから私もきっとそうなんだと思っていました。だけど突然がんの告知を受けて自分はそうならないんだって思うと、何事もなく結婚や妊娠、出産を迎える友達を見たときに、私はなんであのレールに乗れなかったんだろうってすごくショックで。友達の結婚報告や出産の報告を受けたときも「おめでとう!」って気持ちと「なんで私はそうならなかったんだろう」の堂々巡り(笑)。私もそっち側にいたかったのに、私の一体何が悪かったんだろう。私の人生変わっちゃったなって。

私の元気の源

Satomi様の写真
Satomi様の写真

当時私は特別支援学校の担任をしていて、ちょうど11月だったので生徒たちと思い出を話しながら卒業アルバム作りをしている時期の入院でした。入院中、生徒たちから一本の動画が送られてきたんです。そこには、ダンスと合唱で私を精一杯励まそうとしてくれている生徒たちの姿がありました。私が重い病気で急に入院すると知り、生徒たちから自発的に提案があったとのことでした。急性心不全になったり緊急搬送されたりで入院期間がかなり延びて3か月ほど学校に行けなかったんですけど、私の元気の源である生徒たちに早く会いたくて、仕事に復帰できるようがむしゃらに頑張っていました。なんとかギリギリ退院できて、卒業式までの1週間は生徒たちと過ごすことができました。

何よりもつらい2週間

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職場復帰し頑張ろうと思っていた矢先、新たにほくろを発見しました。それを主治医に相談したら「再発かもね」と何気ない口調で言われて。「再発なら5年生存率は3%」という死の恐怖。すぐに手術して生検にかけました。

最初のがんの告知は髪とのお別れや治療の副作用と目まぐるしい3か月でした。でもその3か月より、この結果を待つ2週間の方がつらかった。食事も喉を通らず、眠れない、笑えない。ネットで調べれば調べるほど苦しい状況の人の記事が出てきて落ち込みました。どんな医療行為よりも検査結果を待つ時間が一番つらいんです。私の命の期限は、あとどれくらいなんだろうか。気づけば鬱病の一歩手前まで来ていました。

そして、私は再発の告知を受けました。本当にショックで診察室を出てうずくまって泣きました。頭の中には生きがいだった仕事、そして夫の顔が思い浮かびました。私がいなくなったら一人じゃご飯も食べられないだろうな。猫の世話もちゃんとできるのかな。動けるうちに、と緩和ケアの病院も葬儀場も全部自分で調べて。自分がこれからどう生きていくかじゃなくて、自分が死んだ後どうなるのかを考えるくらい死が近づいてくるのを感じました。

生きるを教えたい

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当たり前に続くと思っていた人生がこんなにも早く幕を下ろそうとしている。だけどすんなりそれを許すつもりもなかったので抗がん剤治療を始めました。目指すは病気との共存。病気で失ったものは計り知れないほど大きかったけど、得たものもあって。人との繋がりや生徒からの「ありがとう」という言葉。それは健康に生きていたらきっと素通りしていたと思うんです。生徒から教えてもらったたくさんの大切なことは、病気が気づかせてくれたのかもしれません。生徒の中には自分で命を絶とうとする子もいて、そういう子どもたちを現場で日々目の当たりにしています。教師としてどんな風に生き方を教えられるか考える私に、先生たちは「あなたが生きてること自体が道徳教育だよ」と声をかけてくれました。5年生存率3%と宣告されてもちゃんと生きて教師をしている私の存在を通して、生徒に生きることを伝えたいと思いました。

教育には夢があります。これから育っていく生徒たちと一緒に生きて、背中を後押ししてあげられる仕事は未来があるなと思っていて。だから夢とか未来の希望に触れたくて、私は教師っていう仕事にしがみついているんだと気づきました。きらきらしている生徒をずっと近くで見守っていたいし、それが私の生きがい。学校は私の大事な居場所です。「苦労して教師になったから」じゃなくて「本当にこの仕事が好きだから」私は仕事にしがみつくのだと、病気になってから気づきました。

そして抗がん剤治療から半年後、5年生存率3%と言われていた私のがんは寛解しました。

教師として、がん経験者として

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これからは一教師としてがん教育をしていきたいと思っています。がんを教えたいんじゃなくて、私の経験やがんを通して若い世代の人たちに生き方を教えたい。ウィッグで教壇に立つ私の姿から、人生の逆境に立っても力強く、そして楽しく生きることができるのだと生徒たちが感じてくれたら嬉しいです。

がんの経験者として皆さんに伝えたいのは、あんまり調べないことと、ポジティブでいること。ネットであがってくるのは闘病中のつらい状況にある人が更新してるケースが多いんですよね。病状が良くなるにつれて更新頻度も減っていくんです。私自身も看護師さんに調べちゃだめって何回も言われました。それよりも散歩したりとか、ペットと遊んだりとか、そういう時間を過ごした方が健康的だと思います。私も渦中にいる時は「そんなわけない。乗り越えたからそんなこと言えるんだ」って思ってたんですけど、がんと鬱病を経験した今はまさにその通りだと思います。だから経験していない人には、なるべくポジティブにいた方が心の健康にもいいよって伝えたいです。

あとはやっぱり時間が薬になると思います。最初は衝撃が大きいけど時間とともに気持ちも落ち着いていきます。実はがん患者と鬱病の人の気持ちの浮き沈みってすごく似ていて。最初にぐっと落ち込んで、ゆりかごみたいに揺れながら少しずつ心が戻っていくんです。

今が人生の谷だとしても、一歩踏み出してそこから這い上がればまた新しい景色が見えると思うから、落ち込むだけ落ち込んであとは上がっていくだけ。ずっとは続かないから大丈夫ですよ。

writer:Higuchi Sakura

メッセージ

がんになっても私は私。自分らしくいきましょう